お盆のど真ん中に、息子と奈良から大阪までサイクリングしました。
サイクリングと薬膳料理がメインなので観光は二の次…のはずが、たまたま訪れた2寺がとてもよかったので紹介します。
といっても、超有名な「唐招提寺」と「薬師寺」なんですけどね。
言い訳ですが、よしまるはこれまで「寺」に興味が全くなく、子供の頃に両親に連れられて行く寺巡りが辛い記憶しかないので、進んで訪れる場所ではありません。
が、しかしっ!
奈良で観光地を検索するとお寺ばかり。しゃぁない行くか、程度のノリでしたが、それも手伝ってか新鮮な感動がありました。
唐招提寺で鑑真さんの苦労を知る
恥ずかしながら、よしまるは寺の名前しか知らず、なぜか息子にガイドしてもらいました。それで鑑真和尚の苦労を知ることに(有名な話だそうです)。
よしまると同じグループの人のために、僭越ながら解説!
鑑真さんは長安で4万人に授戒した高名な僧侶。日本から来た僧侶の願いを叶えるべく、20才の時に来日を決意するも、嵐や役人や地元ファンに阻まれて、6回目のチャレンジでようやく来日した時には66才。5回目の難破で失明。そうまでしてやってきた日本では、東大寺の仕事を任されて授戒がままならず、71才でようやくその任を解かれるも、あるのは残り少ない余命と貰った第7親王の旧宅だけ。。それでも一人でも多くの人に授戒したいという和尚の情熱は尽きず、和尚を慕う人々からの支援で唐招提寺が建立されたそうな…。
神社仏閣というのは当時の国が政(まつりごと)の一環で建てるそうですが、人々の思いでこんなすごい寺が建つなんてすごいです。 出来上がった寺をみた時は、みんな感極まっただろうな~。
よしまるは無宗教だけど、鑑真和尚や周りの人達が、人生を賭けて命を懸けて大事を成そうとする姿を想像したら、グッとくるものがありました。そんな風に思いを馳せながら見る建物は荘厳で温かくて、戦火を免れてここに在るのも、誰かが今も大事に保ってくれるお陰で私が触れることができるのも、これって何かの奇跡なんだろうな。
敷地の建物はどれも年季の入った落ち着いた佇まいで、蓮の花が色を添えて、素晴らしい空間でした。
薬師寺で学んだ不屈の精神
一方 薬師寺 は、渋い唐招提寺とは真逆の、煌びやかで清々しい場所でした。午前の猛暑が曇って涼しくなり、腹も満たされて元気復活してます。
南口の仁王像は色鮮やかで、鬼を踏みつけている姿もユニークで、大講堂には有名な弥勒三尊像もあって、見どころ満載。でも…弥勒三尊像の裏手にブッダの弟子(十体)がずらーっと並んでいて、よしまるはそっちに強烈な印象を受けました。
どの僧侶もすごく痩せて、ほとんど骨と皮だけ。痩せて乳首が腰辺りにありました。この像を創ったのは現代作家「中村晋也」さんですが、当時はこういう姿の修行僧が断食などの修行をしてたんだろうなぁ、とリアルに想像できました。
表情に苦しさは感じられず、ぶれない落ち着きみたいなものがあって、こんな表情を創られた中村晋也さんに、何を感じ、何を想像したのか聞いてみたいと思いました。
そしてここにも不屈の精神が。
金堂のあるメインの敷地を回った後、道を挟んで「玄奘塔」(げんじょうとう)があります。無知なよしまるは、きっとサブキャラね、と決めつけながらも1100円の入場料の元を取ろうというケチ根性で入りました。
六角形の玄奘塔の正面に「不東」と書かれています。なぜか気になって、入口にいた係員のおじいさんに意味を聞くと、そのおじいさんが超わかりやすく面白くスーパーガイドをしてくれました。
またもや僭越ながら、よしまる解説!
中に祭られているのは「玄奘三蔵」といって、西遊記の三蔵法師のモチーフになった唐の僧侶。都が衰え戦が増えるとそれを憂いて、当時中国にはなかった経典(救い)を求めて27才の玄奘さんは歩いてインドに旅立ちます。インドでの修行も含めて17年かけて仏像と大量の経典を長安に持ち帰ると、その後の生涯を、サンスクリット語の経典を中国語に翻訳することに捧げました。
不東とは、「不東帰」の意味で、玄奘さんがインドに向かう厳しい旅の中で、経典を手に入れるまでは東(中国)へは帰らないという決意を表す言葉だそうです。
あれ、今日は何しに来たんだっけ?
サイクリングして~薬膳食べて~、だったはず⁉
鑑真さんといい、玄奘さんといい、600年代の不屈の精神にグッときて、一瞬目的を見失いました。
塔の中の玄奘三蔵像は、TVで見た「西遊記」の柔らかな三蔵法師のイメージとは全然違って、厳格な感じ。なぜか真っ赤。
おじいさんの話はさらに続きます。
塔の中にあるガラスの器に「玄奘三蔵」の頂骨(頭の骨)の一部が保管されています。高名な僧ゆえに、死後は長安の都で埋葬された…はずだったが、なぜか戦時中の日本軍が遥か南の地、南京で発掘しました。当時の中国では、国の栄枯盛衰の度に「墓荒らし」が埋葬された宝物を盗んでいたため、玄奘さんの蝶骨は密かに都を離れ南京で埋葬され、それを日本軍が偶然見つけたのだそうで、日本軍は中国政府に渡しました。
時が経ち戦後。中国から日本に蝶骨の8分の1を寄贈されます。さらにその一部が分骨されてここ、薬師寺の玄奘塔に安置された…ということです。
おじいさんのドラマチックな話をおかずに塔を回ると、裏手に「平山郁夫」さんの壁画がありましたが、「画伯が20年以上の歳月をかけて、長安からインド・ナーランダに至る玄奘三蔵の旅を描いた」なんて知らないよしまるは、一瞬で素通りしてしまいました💦
この人も不屈。。
いやはや、600年代を生きた人達といい、それを描く人といい、人生を賭けて何かに挑んでいて、こういう生き方が少し羨ましいな、と思ったよしまるでした。
サイクリングの模様、ルートも併せてご覧ください。