ひょんなきっかけで、、
近所の「押絵教室」に通いだして、数か月経ちました。
なぜ押絵?はさておき(笑)、生徒はたった6人、よしまるを除き、15~20年のベテラン揃い、皆さんお孫さんがいます。
月1回、2時間だけの集まりは、和気藹々とした雰囲気。手を動かしながら、あ~ら、お口も忙しいこと(笑)! 彼女達の話は、聞いてるだけで楽しくて楽しくて、思わずフフって声が漏れてしまいます(笑)。
いつもながら、シリアスな話もそうならないというか、さりげないのに深くて、そこら辺、すごく上手なんだよなぁ、この人たち。
Kさんの話
絹のちりめん布を選びながら、Kさんが幼少期の話をし始めました。
「叔母がこんな地の着物着てたわぁ。ウチ広島出身でなぁ、原爆経験しとんねん」
「えっ!そうなん?」
「うん、今となっては貴重な生き残りやねん」
え。。。
「幼くてよぅわからんかったけどな、両親が亡ぅなって、親戚中をたらい回しにされてなぁ」
「Kさん、大変な経験しとったんやなぁ」
「最後は叔母に引き取られたんやけど、叔母の背中、一面ケロイドでな。叔父も原爆で亡くならはって、叔母はそりゃもう大変やったと思うわ。再婚しはったんやけど、相手、そいつがホンマにクズでな、全然働かへんねん~」
「苦労したお陰なんかな、今はお金持ちやし、いいご主人に巡り会ぅて、ホンマによかったなぁKさん」
Lさんの話
Lさん「そういえば私も、広島にはおらんかったけど、経験しとんねんよぉ」
「なに?その日広島におったん?」
「愛媛に住んどったんやけど、『昼なのに夜が来た』って叫び声がして外に出ると、真っ暗だったんよ。それで向こうの空に、あのキノコ雲が見えたん」
「へぇ~、そんな遠い所からも見えたんやな」
「その日は急いで防空壕に逃げたんやけど、途中で叔父が焼夷弾に当たって亡くなってなぁ」
「大変やったなぁ」
知ってほしい
お二人ともサラサラと話してるけど、壮絶な経験をされてたんだ。
他の方々も、戦後生まれとはいえ、激動の日本を生きてきた人たちで。。
そして、今がある。
菜園の丸山さんは、大阪育ちですが、幼少期に新潟の長岡に疎開したそうです。
「せっかく疎開したのに、皮肉にもそこで焼夷弾の攻撃を受けてなぁ。防空壕に逃げるんやけど満員でな。地元モンが優先やて、ワシら入れてもらえんかった。後でその防空壕は爆撃受けて全滅したって聞いて…ワシ運よく生き残ったんやけど、そこら中に丸焦げの死体が転がっとった。」
この人たちには、この世の中がどんな風に見えてるんだろう?
生きるか死ぬかの局面で、人の醜さをたくさん目の当たりにした人にとっての、人間観や戦争観と、私たちのそれとは、あまりに違う気がします。
同じ世代同士では、皆が通った道だろうし、思い出したくない経験かもしれない。だから、敢えて語り合わないかもしれない。でも、こういう話を聞けてよしまるは貴重だと思ったし、家族にも話しました。
私たちや若い世代が、戦争経験者の口からのリアルな話を、今のうちに、もっと聞けたらいいのになって思います。